三浦半島

神奈川県の中心にあるのが三浦半島で、鎌倉、逗子、横須賀、三浦の4市があり、それぞれ史歴都市や観光都市として観光客が絶えません。

そして、三浦郡葉山町は海水浴場、別荘地であるほか、高級住宅地でもあり、加えてここには須崎、那須と並んで葉山御用邸(皇室の別邸)があることで知られています。

東京への通勤も盛んに行われているので、東京の文化の影響が極めて大きいといえます。

なお、この三浦半島西部から伊豆半島の根本あたりにおよぶ神奈川の海岸地帯を、ふつう「湘南」と呼んでいます。

相模の南部という意味ですが、ここには以上に挙げたほかにも、藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原などの都市が並んでいます。

こうした点が、一見すると神奈川によく似ていると思われてしまう兵庫県と大きく異なる点です。

兵庫県の中心である神戸は横浜と並ぶ日本最大の国際貿易港なので、兵庫県全体としても神奈川によく似ていると考えてしまいがちです。

しかし、兵庫県の場合は神戸からずっと北上すればその昔、丹波国と言われた地域をかすめて日本海に至ります。

つまり兵庫の場合は、神戸などの諸都市のある瀬戸内海沿岸地方だけでなく、山に囲まれた丹波地方、冬は雪に埋もれる日本海沿岸地方もあるので、この点が神奈川の場合とは大きく異なります。

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熱海市泉地区と湯河原の密接な関係

1871(明治4)年、伊豆国と相模国を領有する足柄県が設置されました。

足柄県は、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島にあたる地域です。

ところが1876(明治9)年の府県統合で相模国は神奈川県に、伊豆国が静岡県に合併されて足柄県は消滅しました。

伊豆は古くから相模や武蔵と密接な関係があったにもかかわらず静岡県に編入されたので、住民による神奈川県への編入運動が発生します。

そのうえ、伊豆には大きな河川がないのに、静岡県のほかの地域に存在する大河川の治水費用を伊豆の住民も負担する点が不公平に思えたため、静岡県からの離脱運動も起きました。

結局、編入は認められず現状維持という結果になりましたが、伊豆はいまでも東京や神奈川との結びつきが強いです。

伊豆の熱海市にある泉地区は、もとは神奈川県でしたが1878(明治11)年に静岡県に編入され泉村となり、その後、他村と合併して熱海村となります。

熱海村は隣接する湯河原とつながりが深く、合併しようとしますが、認められませんでした。

それでも、熱海市泉地区の消防救急業務や下水道処理は湯河原町がおこなうなど両者の関係はいまでも深く、泉地区はほぼ神奈川県とも言われているのです。

松田惣領と松田庶子

神奈川県足柄上郡にある松田町は、酒匂川と川音川の合流点を中心に河川流域が概要をなす商業のさかんな町で、温暖な気候を利用し茶やみかんなどの栽培がおこなわれています。

松田町には松田惣領と松田庶子という地名が存在します。

この惣領と庶子は中世の封建制度の用語で、中世の武士の相続は分割相続制をとっていて、女子も含め子に分配されましたが必ずしも均等相続だったわけではなく、主要部分を惣領(嫡子)と呼ばれる男子が継承し、残りの所領は惣領以外の男子(庶子)と女子とで分割相続しました。

長子だけでなく男子全員の中で一族を統率する能力のある者が惣領となって家を代表し、その能力のことは器量と呼ばれました。

幕府や荘園領主から課せられた公事は庶子や女子に分配されたり、戦争の際には庶子をともなって参加するなど、一族はそれぞれ独立した生計ながら惣領の統制下にありました。

松田町は、このあたりを支配していた豪族・松田氏に由来する地名と考えられています。

松田惣領は松田家・惣領の土地であり、松田庶子は松田家の惣領が庶子に分与した土地ということでしょう。

神奈川県平塚市土屋にも惣領分・庶子分という地名がありますが、同地を支配した土屋氏に由来するといわれています。

鎌倉の地名の由来

神奈川県鎌倉市は源頼朝が鎌倉幕府を創設し、北条時政、北条義時らにより幕府が置かれた都市です。

源頼朝は源氏の守護神として鶴岡八幡宮を現在の場所へ移動させ、由比ガ浜から鶴岡八幡宮の鳥居前までの参道・若宮大路を開きました。

武家政権である鎌倉時代は約150年間続きました。

かつては数々の歴史の舞台であった伝統のある古都ですが、現在の鎌倉は路面電車の江ノ電が走り、人気の小町通には民芸品店やおしゃれなグルメの店がたくさん並び、いつも賑わっています。

数多くの禅寺や神社、歴史的建造物などもある見どころ満載なリゾート地です。

鎌倉という地名の由来についてはさまざまな説がありますが、もっとも古いのが神武天皇に関する説です。

日本初代の天皇である神武天皇が東国を征服しようと、激しく抵抗する人々に毒矢を放ちました。

その毒矢に当たって1万人もの人が死に、その屍(死体)が山となって屍蔵(かばねくら)ができ、それがなまって「かまくら」となり「鎌倉」の字があてられたそうです。

ほかの説では、「鎌」がもともと「かまど(竈)」、「倉」が「谷(たに)」の意味で、鎌倉の地形が「かまど」の形に似ていて「倉」のように一方が開いているので「鎌倉」になったと言われています。

海老名市にある厚木駅

小田急電鉄小田急線には「厚木」と「本厚木」の駅があります。

厚木駅の周辺は繁華街があるわけではなく、人の流れも地味です。

いっぽう本厚木駅は本厚木ミロードやイオン、アミューなど商業施設やスーパー、銀行などが立地している、市を代表する駅です。

じつは厚木駅は厚木市ではなく海老名市に位置していて、厚木市も本家の駅は本厚木なのです。

1926(大正15)年、神中鉄道(現・相模鉄道)が横浜の二俣川~厚木間の営業を開始するのに伴い、厚木駅が開業されました。

計画当初は厚木に駅をつくる予定で建設が進められましたが、資金難の関係で海老名の地に駅を設置する結果となりましたが、駅名は「厚木」とされました。

その後、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が1927(昭和2)年に開業し、厚木町に駅をつくることになりましたが、厚木の駅名はすでに使われていたので「相模厚木」という駅名を用い、現在の小田急「厚木」の位置には「河原口」を開設します。

そして神中鉄道が国有化されて厚木が国鉄相模線の駅になり改札口を共同使用することとなったので、小田急「河原口」は「厚木」と駅名が変更されます。

そのとき相模厚木も本来の厚木という意味をこめて「本厚木」と改称されたのです。

横須賀駅はバリアフリー駅の先駆け

2006(平成18)年に高齢者、障碍者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(バリアフリー新法)が施行されました。

鉄道駅や空港、ターミナルなど公共交通機関の旅客施設で、主要駅でのバリアフリー化が義務付けられましたが、まだ全駅に設置とまでされていないようです。

JR各社のインターネットサイトを見ると、管轄する各駅の構内の様子やエレベーター・エスカレーターの設置位置が載っています。

この駅のバリアフリー情報欄で、JR横須賀線の「横須賀駅」はエレベーターもエスカレーターも「なし」と書かれているのでバリアフリー化が進んでいないように見えますが、この駅はじつはもともと完全にバリアフリーで、駅に入ってからホームまで段差が全くありません。

横須賀駅が開業したのは1889(明治22)年のことですが、駅の構造は開業当初からずっと変わりません。

駅舎は地上1階建ての平屋建てで2階がなく、階段もなく、改札にもホームにも段差がないのです。

そして、1番から3番まであるホームのうち1番は使われておらず、2番線は行き止まりで折り返し始発・終着運転の列車用であり、3番線は久里浜までと久里浜からの列車用で、1面だけなのでホームを渡る必要がありません。